東京地方裁判所 昭和32年(ワ)1866号 判決 1959年3月18日
事実
原告春日井初雄は請求原因として、原告は本件土地及び建物の所有者であるところ、昭和三十一年十月末頃右不動産につき競売手続を開始する旨の通知を受け、調査の結果始めて右不動産に権利者を被告とする同年七月十八日附停止条件附代物弁済契約による所有権移転請求権保全仮登記及び同日附抵当権設定契約による抵当権設定登記がなされていることを知つた。しかし原告は被告と一面識のないもので、被告との間に本件不動産を担保に供する旨の契約を結んだことも仮登記を承諾したこともない。原告は同年五月二十六日訴外古沢敬昇から金十万円を借用したが、その際その担保として右不動産に抵当権を設定することを同人に委任し、この不動産の登記済証原告名義の印鑑証明書、白紙委任状を交付し更にその後同年九月二十一日頃同人に印鑑証明書を交付したことがあるが、同人がこれらの書類を勝手に使用して本件登記手続をなしたものであり、従つて右各登記は原因を欠く無効なものであるから、原告は本訴において右各登記の抹消登記手続を求めると主張した。
被告小平けい子は答弁として、被告の母小平はるえは被告を代理して訴外大洋印刷株式会社及び文化教材株式会社を連帯債務者として昭和三十一年五月三十日金百五万円を貸与し、同時に原告の代理人訴外本多則雄、古沢敬昇との間に右債権を担保するため原告所有の本件土地及び建物につき順位一番の抵当権設定契約並びに債務者が期限に弁済しない時は、債権者はその選択により本来の請求に代え本件不動産の所有権を取得する旨の代物弁済の予約をなし、代物弁済の予約につき被告のため所有権移転登記請求権保全の仮登記をする旨の契約を締結したのであるが、その前に原告は登記と公正証書作成に必要な印鑑、印鑑証明書、登記済権利証、白紙委任状等を前記本多、古沢代理人に交付していたので、同人らの適法な代理権に基き右各登記手続と公正証書の作成がなされたのである。仮りに右法律行為をなすにつき、本多、古沢に原告を代理する権限がなかつたとしても、原告は同人らに印鑑、印鑑証明書、委任状、権利証等を交付したことは民法第百九条の代理権を与えた旨の表示があつたものであり、また原告はその頃本多、古沢から金十万円を借り受けその担保として本件不動産に抵当権を設定し、その登記手続を委任して所要の書類等を交付したのであるが、被告の代理人である小平はるえは、右印鑑及び書類の正当のものであることを確認し、本多、古沢に前記契約をなすにつき原告を代理する権限ありと信じたのであり、且つ信ずるにつき正当の理由があるものであるから、民法第百十条に基き原告はその責を負うべきものである。よつて本件各登記は何らの瑕疵はないと主張した。
理由
被告は、原告が古沢、本多らに印鑑、印鑑証明書、委任状、権利証等を交付したことは民法第百九条の代理権を付与した旨の表示があつたものであると主張するので按ずるに、印鑑その他右の書類の交付は、何らかの代理権を授与した場合に多くなされるというに止まり、代理権を伴わない場合もあるので、常に必ず代理権の付与を表示するものということはできない。従つて、右交付の一事によつて代理権の付与を表示したものというに足りないなから、被告のこの抗弁は採用することができない。
次に民法第百十条の主張について、原告が古沢に対し、同人に対する金十万円の債務のために本件不動産に抵当権を設定することの代理権を与えたことは原告の認めるところである。
一般に代理人と称するものが本人名義の印鑑証明書、白紙委任状、登記済証を所持するときは、その代理権限を有すると信ずるのが通例であり、且別段の事情のない限りそのように信ずるについて正当の理由を有すると解すべきである。
しかして、民法第百十条が表見代理人と取引した相手方を保護する趣旨は、当該取引の実態に照らし、相手方において表見代理人の代理権の存否を本人について調査するまでもなく、諸般の状況から正当の代理権を有するものと信じたことが、一般社会通念上無理からぬものと考えられるが故であつて、右にいう諸般の状況とは代理権限を証すべき書類等を所持する場合も含まれるのであつて、代理人と称する者が本人名義の印鑑証明書、白紙委任状、登記済証等を所持する場合には、通常人の注意をもつては代理権のないことを見抜き得ないものと一応いうことができるので、この意味において別段の事情のない限り正当の理由を有すると解されるわけである。
しかし、そうだからといつて、それらの書類を所持する一事によつて表見代理人の社会的経済的信頼度とか取引数額の如何を問わず常に相手方の注意義務が免除され、正当の理由を肯定すべきであると考えるのは早計である。すなわち、前記のような書類を所持する場合でも、不動産取引の重大性に鑑み、これを担保として当事者にとつて高額の金銭の貸借をする場合には、表見代理人の信用程度如何により、その代理権の存否に一応の疑念を懐くべきが社会常識であつて、その用意に欠けるところがあるときは、正当の理由は否定され、本人が保護されることになつても代理制度による一般取引は阻害されないと考えるのが相当であると信ずる。
この観点から本件を考察するのに、証拠を綜合すれば、古沢は斎藤進一を代表取締役として金融を営業とする協立実業株式会社の専務取締役となり、斎藤と共に昭和三十年春頃から不動産担保の金融事業に従事していたが、斎藤は昭和三十二年初頃から借主の提供した不動産を不正に処分した嫌疑で当局の取調を受けるに至つたものであり、また古沢も本件のように原告の提供した不動産を不正に処分したものであつて、社会人として信頼するに足りないものというべきところ、被告の母小平はるえは本件の取引直前である昭和三十一年五月頃古沢を始めて知つたものであるが、古沢の主宰する太洋印刷株式会社の副社長なる名義の名刺を印刷させようとした程古沢と仕事上密接な関係に立ち入つたものであつて、小平はるえとしては古沢の人物調査に用意を欠いたのみならず、本件の貸借は軽々に同人を信頼して、前記書類の外に代理権の存否を何も調査せず、はるえ及び被告の重要な財産である金百五万円の金銭を古沢の事業を加担する趣旨において貸し出したものと推認される。
してみると、このように前記書類の外代理権を信ずべきなにものもなく、且つ信頼すべきでない人物に、自己にとつて高額の金銭を共同事業的に貸与するに当つては、古沢が処分を一任されたと称して提出した権利証、印鑑証明書、委任状をそのまま正当なものと信ずるのは甚しい軽卒のそしりを免れないと考えるのが至当であつて、担保提供者が都内居住者であることから見て、その真偽を確めることは極めて客易なことであるから、このような立場にある小平はるえとしては、その程度の注意を用いるべきであり、はるえにおいてその挙に出なかつたことは甚しい過失あるものというべきである。そして民法第百十条にいう正当の事由とは、前に述べたとおり、具体的の事態において、通常人の注意を用いても権限外の行為であることを客易に知り得なかつたであろうと考えるのが相当な場合と解すべきであるから、本件においては、はるえにおいて古沢に代理権ありと信ずるにつき正当な事由を有しないものと判断すべきである。
以上の次第で、本件抵当権の設定契約及び代物弁済の予約は無効というの外はないから、本件各登記は登記原因を欠く無効のものとして各抹消登記手続を求める原告の請求は正当であるとして、これを認客した。